エッセイ 「ザ ブレーカーズ ホテルのプールサイド」
プロローグ
サラリーマン時代にハワイのホノルルでゴルフトーナメントを会社が主催、その仕事でホノルルを訪れた。
そこでハワイに住み着き、白木屋で働いていた友人とビールを飲みながら
ひとこと言われた言葉が心臓を貫いた。
「あなた方の年の人がもうリタイヤーしてハワイに住んでいますよ」
1990年代の事だ。
やがて定年を迎える今、リタイヤーした後の生き方を考える時間も間も無いままに
会社に身をささげていたのだ。
事件記者として20数年、取材記者、イベントプロデューサーとして20年余り、
言われて気がついてみるとリタイヤーと言うゴールは目の前だ。
その頃のハワイは、日本のバブル全盛時代であり、又古き良い時代のハワイの姿をまだ存分に残していた。
あの懐かしいホノルル空港に飛行機から降り立つと、フラダンスで迎えてくれて、レイをかけてくれてた。
ホノルルの匂いは、海の匂いと果実の匂いと木立の匂いがミックスした、心が軽やかになりそうな匂いだ。
思い出しても懐かしいのは、ホノルル空億を飛び立った飛行機は日本航空のコンベヤー880だ。
途中、悪天候に遭遇してガソリン給油の為ミッドウェイ島に着陸。
米国領のため機外には出られず、飛行機のドアだけ開いたら生暖かい南国の空気が入ってきた。
今考えたら想像もつかない出来事だ。
その後にDC-8−50型機に搭乗、この機種が一番人間性のある機種と言われ、
機体ナンバーが005クルーいわくボロボロファイヴと称していたが、トイレがタイルで、
普段家で使用しているのと同じというのが安堵を感じさせてくれた。
当時でもそのくらい古さを感じさせる機種だ。
ホノルルは出会いの島だ
ハワイ三田会のメンバーの人から「吉田昭という人がいるが、貴方の同窓ではないのか?」
という質問を受けた。
小学校の同窓だが、卒業以来会ったことがない同級生だった。
その彼がホノルルを訪問する時にハワイ三田会を開いてくれて、いろいろな方と知り合いになれた。
その中で奇遇だったのは清野太郎という人と会った時だ。
彼はロカビリー全盛時代にカントリーソングを歌う歌手だ。
清野太郎さんに「清野暢一郎さんという人知ってますか?」とたずねると、
「その人は父です」という答えが返ってきた。
清野暢一郎さんは翻訳家でユージン・オニールの「夜への長い旅路」を訳したりした人だ。
一人横浜の山の中腹に住んでおり、当時高校生だった時代に芝居をしていた私は
叔父に紹介してもらい、有名な清野暢一郎さんを再三家に訪ねたのだ。
何時も一人で住んでおり、訪問すると紅茶を出してくれた。
清野太郎さんは「実はその頃の親父の生活は知らないのです。別れて生活をしていたので」と。
それで暢一郎さんが一人で住んでいた理由が解せた。
家に暢一郎さんから頂いた、はがきや手紙、そうだ翻訳した白水社出版の「夜への長い旅路」の本がある。
「太郎さんは持っているか」と聞くと、「以前に家が火事で焼けて何もない」と。
次回ホノルルで会った時、本を持参すると、奥付のところに押してある判を見て、
「これ僕が押したのですと懐かしそうに話した。
絶版本だったが、勿論太郎さんに差し上げた。暢一郎さんの記念として。
そして、それから、いろいろな方々と出会う事になる。
イオラニ宮殿
H.BETO Yamanouchiさんと出会ったのは、作家の陳舜臣さんがハワイで病後をゆっくり過ごそうと
言う事でハワイに行くことを知った山内さん、当時ボランテイアでイオラニ宮殿で日本語の案内をしており
われわれをイオラニ宮殿に招待、普段聞けない話も含めて懇切丁寧に案内して頂いたのが始まり。
その後、何回かリーフホテルの海辺のバーでビールを飲んで親しさを増した。
そのとき、山内さんは、ビーチウヲークのところにあるブレーカーズというホテルを知っているか?
プールの奥にバーがありそこのバーテンが一寸変わっていて面白いですよと、話してくれた。
ある日、ブレーカーzホテルを訪ねると奥にバーがあり、ひげを生やした男がカウンターの中にいた。
このときここを訪れなかったら、生涯ブレーカーズホテルのプールサイドは存在しなかっただろう。
山内さんは、アラワイ運河のほとりにあるコンドミニアムに一人で住んでいて、バスに乗って
当時アラモアナ近くにあったダイエーに日本酒を買いにいくのが日課、夕暮れからコンドミニアムで
一人飲むのを楽しんでいたが、晩年は淋しい日々を送っていたようだ。
発端のブレーカーズホテル当時は
ブレーカーズホテルのジェネラルマネージャーのエセル ナダとの出会いは、山内さんに教わった
プールの奥にあるバーに行こうとしたときだ。
ワイキキのこんなところにハワイ風の二階建てホテルがある。
室内はどんなになっているか知りたくて、見せて欲しいと頼んで案内してくれたのだエセルさんだ。
その頃のホテルの周辺はまだ昔の雰囲気が残っており、近くにbazz'sというステーキ店があった。
すぐ横にはKai Alohaという小さなホテルやハワイアナという一見可愛らしいホテル、バーバリーの店
周辺には大きな建物はなく、ホテルの前にはSushikoh<すし好>という安くて美味しいものを食べさす
店とか、やぶそばの店とかが雰囲気を作り上げていた。
ブレーカーズホテルは凡そ60年前のままの建物で、木造二階建て、引き戸は障子風に、ハワイ特有の
ジャガードつきで二階にはラタン<縁先>がある。
言い忘れたが、とよの付いた建物がハワイにあると聞いたら驚くだろうが、ブレーカーズの
建物には皆とよがついているのだ。
驚くなかれの風景だ。
とよは日本の建物の、見てくれを考えての芸術的作品といわれる。
プールを囲んで客室がありその片隅に、大きな蛸の木が象徴的にそびえている。
そのプールの奥にバーが、そこにいつもいるのは海軍上がりのTOM<トム>が客相手に仕切っていた。
トムというと、違うタムだといわれる。
頑固なトムだが白い毛の小型犬をこよなく可愛がっている。
ここの名物はベーコンチーズバーガーだ。たっぷりしたバーガーとオニオン、トマトが挟まり
物凄く大きい。トムにどうして食べるんだと聞くと、プッシュと一言、押さえつけて食えと。
値段は4ドル95セント、BLTSベーコン、レタストマトサンドは4ドル95セント、これにポテトサラダ
2ドル95セント最高の味だ。
ここのロコモコも味は最高、緑のタバスコをかけて食べると抜群の味になった。
飲み物もCALLはただビールというと3ドル95セント、CALL
BEERというと銘柄指定でドル75セント
wineは2ドル95セントなどが楽しめて。
このバーが出来た由来は、泊り客が何か一寸飲んだり食べたり出来るといいなあということから
始まったという。
バーのオープンは午前11時、ホテルの入り口にThe
Breakers BAR &GRILL OPEN という看板が出る。
その下に一言子書いてある。Possibly the best
Hamburger in Waikikiと。
ゼネラル マネージャーのエセル ナダは小柄で、偶然50年ぐらい前の彼女がホテルで働いている
写真を見せてもらった事があるが、本当に可愛い日系二世という感じだった。
フローレンス、テイム、シャローン、グレース、トム、シャルレーヌ、ヒラリー、デイヴィットほか
ホテルの庭を綺麗にしていた庭師グーズマン、彼は日本の大阪にいたことがあるので、会うと
まいどと嬉しそうに挨拶をした。
彼も50台でがんで亡くなった。その後を息子のユーセンがついで、ホテルのプールサイドのハイビスカスを
美しく咲かせている。
そのバーのスペースはバーベキューも出来て、あるときテイムに頼んで大掛かりなバーベキューパーテイを
そこで開いてシェフの資格を持つテイムに肉を焼いてもらった。
朝ホノルルについてホテルに行くと部屋がクーラーで冷たく冷やされており、エセルさんからの美しい花が
部屋の中で待ち受けてくれている。そんなホテルがブレーカーズだ。
トムならずのタムはがんを患いその後回復して、時々ホテルの白い毛の小型犬を連れて椅子に座っている。
一言、俺のハンバーグは4ドル95セントだったと。
それからのブレーカーズホテル
昔懐かしい雰囲気を残していたビーチウヲークの周辺があわただしく変わり始めた。
911の出来事があって以来、客足の落ちたホテルが一斉にホテルとコンドミニアムを合体させたような
コンドホテルにッ模様替えはじめた。
そしてブレーカーズホテルの中にもホテル正面にあったsushikohがトムのバーがあった所に入る事になる。
本当はすし好と書くんだろうが?好という時は店の主人の奥さんの名前が好子だったので、そこからとった
そうだ。
この店、すしが文字通り美味しく安くて好評だったが、働き者の奥さんが体調不良となり惜しまれつつ弊店。
その後にビストロ和さびという和食に店が入った。
この頃になるとブレーカーズの周辺は一変、元全日空ビルの下にはセブンイレヴンが開店、従来どおり
ABCがありそこに9階建のThe Regency of Beachwalkが,その階下には銀座梅林,松玄、アランチーノが
隣が11階建てのThe nihau更にブレーカーズの横には36階建てのトランプビルがそびえ、その下に
KAI ALOHAという小さなホテルが立ち退かず残留している。
それでもブレーカーズのプールサイドは夕方4時午後から人気がなくなり、爽やかな風が吹き始める。
このプールの片隅の椅子に座りワインかビールをアイスボックスから運んできたアイスを横に
通称プールサイドバーの開店だ。
爽やかな風、ワイキキの中にある静寂な空間、蛸の木の精霊を受けながら喉を潤すワイン、ビール
かってローカルの知人がワイキキにこんな所があるとはと、ではこの空間はなんと言うか?
異空間、サスペンデッドと一言。
世界最高のプールサイドバーで至福のときを過ごせる時が人生無の心境になる。
ホテルの顔なじみのスタッフは、フロントから静かに眺めている。
やがて夕方6時を過ぎる頃、エセルさんがプールサイドをゆっくり歩いて帰途に、近づいてくると
黙って手を振る。そよ風の中で。
左手のタコの木の下がプールサイドバー喰海だ。
陳舜臣夫妻とブレーカーズ ホテル
阪神淡路大震災直前に体調を崩された作家の陳 舜臣さんにハワイはマグマもあり体にいいから
ハワイで過ごしませんかという一言を聞いた未知夫人は言下にいきましょう。ハワイへ。
当初はまだブレーカーズホテルがあることを知らずに、ハワイの知人の紹介でワイキキバニヤンで
ビーチに近かったので、未知夫人が毎朝陳舜臣さんをビーチに、裸足で波打ち際を歩くのが日課に。
やがて、ブレーカーズホテルを知り、ここのホテルの顧問をしていた相馬さんという人が作家陳舜臣さんの
フアンという偶然も重なり、何時しか定宿いや定ホテルに。
次第に陳舜臣さんの体調も安定、不自由になった足も、右左と歩く速度も安定してきた。
ブレーカーすホテルからもビーチまでは数分なので、未知夫人は毎朝日差しが強くなる前にビーチへ
そこからヒルトンホテルの往復が、日課となった。
その頃は、ハワイのホノルルにラジオの日本語放送局がKーZOOとKーJAPANの二つがあり
K-ZOOには沖 葉子さんと言う方が番組を持っていたので、陳舜臣さんは私と二人で朝の番組に
またK-JAPANは富田いく子さんという方の「この方とコーヒーをもう一杯」という番組に、ホノルル訪問の
たびに、陳舜臣さんと共に朝スタジオに行き生放送に出たりした。
陳さんは今書いている話やこれからの構想など、私はメデイア人間から見た日本の近況を話した。
ブレーカーズホテルのプールサイドで椅子にもたれて,うたた寝をしている陳舜臣さんは,ふと目が覚めると
あれは何処と未知夫人を探すのが口癖、あるとき椅子にもたれている陳さんに、今何を考えているんですかと
尋ねると、頭の中を空にしているんだという答えが返ってきた。
要らない知識を捨ててるんだと、すぐ忘れるような話は必要ないそうだ。思わずなるほどと。
ブレーカーズホテルのプールサイドは、陳舜臣夫妻を中心に飲んだり食べたりお喋りしたり、宿泊の
アメリカ人やカナダ人などと交流も深めたものだ。
あるとき、泊り客のアメリカ人夫妻に呼ばれたので、何かと聞くと、陳さんのことを私の父親かと聞いてきた。
横で見ていて、いろいろと世話をしているのでそう思ったのだろう。
その話を陳さんにしたら、いやーな顔をした。
陳さんと私は丁度一回り違いで互いにねずみだ。勿論私が下だ。
中尾善宣さん
1928年7月1日生まれの中尾善宣さんは凡そ50年前、1954年8月18日に
日本から天理教の布教の為にハワイに来た。
当時はプレジデント ウイルソン号という船で船底の2段ベットに押し込まれ、一緒に来た奥さんは
同室になれず別々の船旅だったという。
この中尾さんは、天理教ハワイ伝道庁の50年史を一人で書き上げた。
偶然の事から中尾さんが天理文庫の主事を務めている時に出会い、丁度、作家の陳舜臣さんの
文庫を作りたいという構想を持っている時で、お酒がすきと聞いて1升ビンを提げて天理文庫に尋ねた。
もともと文学好きの方だけに、陳舜臣文庫をここに作りたいというと、願っても無い事と快諾。
1998年1月末に天理文庫で陳舜臣文庫開設式が開かれた。
開くに当たり、開設実行委員長に当時のセントラルパシフィックバンクの齋藤譲一会長に実行委員長を
お願い、沖葉子さんなど当時現役で活躍していた方々の協力を得て、盛大に開設式が開かれ
病後、日本ではした事がない基調講演、ハワイと私というテーマで講演を行ったのだ。
そのとき段ボール箱5つに著書を詰め込み陳夫妻と三人でホノルルへ運び込んだ。
講演終了後、テイーパーテイを開き日本語新聞のイーストウエストジャーナルの永井雄治さんも
大きく記事に取り上げてくれた。
はじめは、書庫の片隅だった陳舜臣文庫も、その後一部屋に独立、看板も立派な木彫りのものが飾られた。
陳さんの全著書はじめ新聞掲載記事、テレビ出演ビデオテープ、陳さんの日頃を撮影した写真、原稿を書くのに
使った万年筆、色紙など、陳舜臣さんを知るに十分の資料が飾られている。
後に、イーストウエストジャーナルの永井社長が33年間の新聞に別れを告げた後、永井さんが使用していた
ガラス戸入りの本棚を寄贈、今は綺麗にこの本棚に陳さんの著書は収まっている。
中尾さんはいつも私がホノルルへ到着すると、迎えに来てブレーカーズホテルへ直行、部屋でビールを飲むのが
楽しみの行事となり、何時しかホテルの人たちも、あっ、お友達ですよと、言うほどの顔見知りとなっていた。
2011年には中尾さんも83歳、文庫のメインは岡田法夫とレナさんと言う日系のご夫婦が取り仕切るようになり
中尾さんは、陳舜臣文庫と、同時に開設した、タカラヅカ レヴューライブラリーの面倒を見ながら、岡田夫妻に
任せる時代となった。
この中尾さん、特技がありそれはかつおのたたきだ。
一度、ブレーカーズホテルの奥がまだバーベキューできる頃に、陳舜臣、未知夫妻を囲んでパーテイを開いた。
そのとき特性のかつおのたたきを持参、その味の見事さは、皆を驚かせたのだ。
ハワイ在住の齋藤譲一夫妻は、時々天理文庫を尋ねておいでのようだ。
陳舜臣文庫は1998年開設、5周年目に文庫で陳さんを囲んで懇話会を、10年目には真珠湾攻撃で
有名な夏乃家で齋藤譲一夫妻、陳舜臣、未知夫妻、浜田道仁天理教ハワイ伝道庁長夫妻はじめ
関係者が集まり、10周年を祝った。
ブレーカーズホテルの顧問をしていた相馬さんは何時しか身を引かれ、姿を見なくなった。
でもブレーカーズホテルのプールサイドは夕方4時を過ぎる頃から爽やかな風が吹き始める。
ジェネラルマネージャーのエセルとホテルスタッフ
ブレーカーズホテルに到着すると必ずエセルが「ウエルカム カンバクホーム」といってハグを
してくれる。
ホテルの人からこの言葉が聞けるのは最高に嬉しい。
それはそれだけ馴染みが深いという証だからだ。
小柄でメガネをかけているエセルは、口数は少ないが、気配りは素晴らしい。
ホテルのジェネラルマネージャーとして勤めているのはエセルがハワイでは一番長いはずだ。
しかも女性としてはだ。
ホテルの入り口横の風が吹きぬけるようなオフィスで朝夕2交代勤務で午後の3時になると後半の勤務の
スタッフが現れる。
そして夜の23時なるとナイト専門の人がオフィスに座るのだ。
男性のテイムは大柄でシェフの資格を持っていると聞く。コンピューターに精通していて、細かい仕事には
詳しい。午後の勤務が多いのは、昼は他のホテルで働いているからだろう。
日本語も少々判り、気さくさがいい感じだ。
その昔、バーベキューするときシェフ役を頼んだらちゃんとコックの衣裳に着替えて総てを仕切ってくれた。
勿論、それ相当のチップは皆で払った。余談だが。
古くから居るフローレンスは、でしゃばらないが、気配りは素晴らしい女性だ。すばやく相手の要望を察知して
満足させるだけの機転が利くコンシェルジュ風だ。日本語は無理だ。
そういえば、エセルは日本語が話せない。以前にローマ字ならわかるはずだと聞かされたが
試した事がないので、定かでないが、多分日本語を覚える頃に戦争が始まり日本語を覚える機会が
無かったのではないかと、誰かに聞かされた記憶がある。
一度、事実を聞いてみたいと考えている。
宝島を書いたロバート ルイス スチーブンソン
ブレーカーズホテルのプールサイドにある蛸の木を見ると、宝島という物語を書いた
ロバート ルイス スチーブンソンを思い浮かべる。
ダイヤモンドヘッドの近くにあるカイマナビーチホテルの1階にあるHau
tree Lanai<ハウの木のあるベランダ>
ここの木の下でスチーブンソンは、あの有名な物語、宝島を書いたといわれる。
ハウの木、幸せの木とも言うべきか、この木下に居ると何か神秘的な気持ちになるのは何故だろう?
目の前は大海原で、そこには海賊船が目に入っても少しもおかしくない風景だ。
同じ気分になるのが、ブレーカーズホテルのプールサイドの蛸の木だ。
この木の下に座ると何か不思議な気分になる。
作家の陳舜臣さんが夫人の未知さんとよくこの木の下で本を読んでいた姿はなんとなく、スチーブンソンと
重なりあうような錯覚を勝手にさせた。
そして、作家陳舜臣さんは、どんな物語次に書こうと考えていたのか?ミステリー的なものを感じ
それを知るのは、ひょっとしてこの蛸の木だけかもしれないと。
この木を見るたびにそれを感じるのだ。
以前、陳舜臣さんは毎日新聞に時代の風という題で文章を書いているが、その冒頭にこんな書き出しがある。
「ここ数年、寒い季節には暖かいところに行くことにしている。3年半前に、脳内出血でたおれて以来、それが私の
ローテーションになり、ことしはハワイですごすことににした。
いまホテルの宿舎でこの原稿を書いているが、スチーブンソンがその木陰で宝島を書いたといわれる
ガジュマルの樹がまだ生い茂っていた。
スチーブンソンはそのころのことだから、汽船に乗って南の島を訪れたにちがいない。
それにくらべると、関西空港から7時間ほどで飛んでくることのできるいまは格段に便利になっている」
この文章を読むとなんとなくノスタルジーを感じるのだ。
移民の島混血の島ハワイ
ハワイは移民の島、混血の島と言われる。
日系、中国系、韓国系、ポルトガル系、プエルトリコ系、日系の中でも沖縄系は又何故か別だ。
勿論普通は英語を喋るが、地元の人に言わせるとその英語はピジョンイングリッシュというそうだ。
色々の言葉が混じっているせいらしい?
ザ ブレーカーズホテルから歩いて1分足らずの海辺にOutrigger
Reef Hotelがある。
昔からあるホテルで最近リニューアルしたが、素敵なホテルだ。
何が素敵かと言えば、ここのバーは目の前が海だからだ。
そのバーとレストランはShoreBirdという。
ここで昼間でも、夕暮れのトワイライト時でも、とてもほかでは味わえない素晴らしい風景が
見ることが出来るからだ。
ここで出会った女性が居る。
名前はJulia Costa, なんとなく魅惑的なその昔の映画、黒い珊瑚礁に出てきたシーン シモンズではないが
そんな感じをはじめて見たときは感じたのだ。
サーバーもそつなく機転が利き読みが早い。
失礼ですが、お名前は?と聞くとジュリアと答えた。
ジュリア?何カ国入っているの?
4カ国と答えた。
何処の国?お祖父さんがポルトガル、父親が沖縄、母親が日本で自分はハワイのカウアイだと。
なるほどとなんとなく合点した。
ポルトガルが入っているので、なんとなく魅惑的目と顔をしてるのかと、勝手に思った。
確かにスーパーマーケットに行くと辛い味の細長いポルトガルソーセイジがある。
甘い味のパンも売っている。ふと考えるとポルトガルのポンドロウを思わせる味だ。
つまりカステラの原型だ。
ジュリアは1983年10月11日生まれだと言う。手相を見たら素敵な男子が一人出ていた。
この人がいいよとジュリアに言うと、この人には振られたと淋しそうにつぶやいた。
でもいい人だよ、ゴーフォアブロクンだ。
フロアーの担当だったジュリアは、何時しかカウンターの中に入りバーテンの仕事をしていた。
昇進親だね、よかったね、ギャラも上がった?の問いには、にこっと笑い顔で答えた。
昼間も夕暮れトワイライトもバーの内側に居るジュリアの顔と夕暮れの変わり行く海の様子を
見比べながらそこで飲む飲み物は何を飲んでもワンダフルだ。
沖 葉子さん、富田いく子さん、納谷誠二さんとの出会い
ハワイのホノルルに陳舜臣文庫とタカラヅカ レヴューライブラリーを1998年に
創設するに当たり上記の方々にお世話にならなかったら誕生しなかっただろう。
沖 葉子さんはその頃、ご自分のラジオ番組をKZOOでお持ちで、陳舜臣さんと
ハワイに行くたびに番組に出していただいた。
陳さんは自分の本の事書きたいことなど喋り、小生は日本での出来事はじめ
宝塚の話などした。
そして勿論、文庫の宣伝も。
それよりも沖さんは陳舜臣文庫を創設するとき、当時のセントラルパシフィックバンクの
齋藤譲一会長を実行委員長にお願いしてくれて、記者会見まで用意、その時のお弁当を
日本料理の義経の山崎さんに依頼、実は彼は作家の陳舜臣さんの隠れファンだったのだ。
そんなことで、沖さんには1998年依頼ハワイへ行けば多面的に協力をしていただいた。
晩年ご主人が食道がんでダイヤモンドヘッド近くの山の上のお家へ中尾善宣さんとお見舞いに
うかがった。
その時、ご主人がご自分の食道のがんの写真を持ってこられて、こうなんですと話されたのが
今でも強く印象に残っている。
ご主人は、それから間もなく鬼籍へ。
この沖さん日本語新聞のイーストウエストジャーナルが出版したハワイ文化芸能100年史の
中に若い時代の美しい写真があるのを見つけた。
ハワイに1950年9月20日に日本語放送局が生まれ、この時代のホノルルは日本語ラジオ
放送界は群雄割拠の戦国時代で、その局の数は十指に余るほどで、その中のKIKI,KULA
といいう局で沖 葉子さんは美しい姿でマイクに向かっていた。
納谷誠二さんとの出会いも不思議な出会いで、この方がハワイ州の経済観光局長のときに
陳さんとともに知り合うことになるのだ。
勿論、陳舜臣文庫の開設式には出席していただいた。
納谷さんはハワイとは不思議な縁で結ばれていることを後で知り、またハワイ文化芸能100年史で
若き時代の納谷さんを知ることに。
それは戦後初の日本拳闘選手団がハワイを訪れた時、納谷さんは選手としてハワイに
そして、そのままハワイ大学を経て、その後ハワイの州知事に気に入られて州のスタッフに
加わったのだ。
一時は、ハワイに日本人のリタイヤーした人にリタイヤービザを作り来てもらおうという案も
聞かされたことがあったが実現はしなかった。
私がいる間はいつでも私の部屋のドアは開いてますから、言っていただいた言葉が今でもうれしく
心の中に残っている。
本の中の写真は、精悍な顔をした納谷さんの写真がある。
富田いく子さんは自分でラジオ局K-JAPANという日本語放送局を作り、そこでも陳さんとともに
この方とコーヒーをもう一杯という番組、ハワイに行くたびに出させていただいては陳舜臣文庫の
タカラヅカ レヴューライブラリーの宣伝をさせていただいていた。
とにかく波乱万丈のご婦人で、ある日、会社に向かおうと家を出たところで、カージャックにあったそうだ。
助けを呼んでも誰も怖がって出てこない、とにかく総ての物を持ち逃げされたので、電話もないので
助けを呼んでドアをたたいて開けてくれた家のドアに足を突っ込んで無理やり開けさせ電話に
たどり着いたと。
そのあとラジオで犯人が乗り逃げした自分の車のナンバーを放送、観光バスのロバーツの
運転手が見つけて追跡してくれたとか。
又あるときは、共同経営者に朝会社にいくと、いきなり、ユアーラストデイと言われて
途方に暮れたとか、それでも活力いっぱいに今も放送とは違う仕事で勇気百倍と走り回っている。
でも、こうした方々も、皆ブレーカーズホテルのプールサイドで楽しいひと時を過ごして、富田いく子
さんにいたっては、プールサイドで赤ワインを飲みながら小生をインタヴュー、そしてオンエヤー
そんな時代も今は楽しい時代と振りかえられる。
天理文庫の中にある陳舜臣文庫もタカラヅカ レヴューライブラリーも開設以来、賑わいを
見せているのがうれしい。
2012年3月現在で陳舜臣文庫には、勿論陳さんが書かれた本だけだが、単行本文庫本合わせて
343冊、資料ビデオ写真など50点、タカラヅカ レヴューライブラリーには単行本、月刊誌
432冊、舞台のビデオ、DVD合わせて431本ほかに資料が1000点余り備えられている。
2012年3月13日
HELEN SINCLAIR(ヘレン シンクレア)
ヘレンと呼んで何十年になるだろう。常に大昔のハリウッドスターのような雰囲気を持つ婦人だった。
ザブレーカーズから少し離れたロイヤルハワイアンホテルの中でヘレンという装身具を売る店をしていた。
常に年齢不詳、でもなんで知り合ったのか不思議に親しく会うごとに今日のヘレンの顔と言っては写真を
撮った。
毎回上から下までおそろいの姿でその雰囲気はいともしれないものを感じさせた。
こんな服装が似合う人はそうざらにいないと思った。
通称ピンクホテルのマドンナ的人だったのだ。
或る日店を覗くと過日ヘレンと一緒に撮った写真が額に入りショウウインドウに飾られてあったのは
驚いた。
店にいる彼女は店のインテリアの一つと言える雰囲気で、彼女がいない時は店の雰囲気がガラッと
変わっていたのは不思議だ。
ロイヤルハワイアンホテルがリニューアルするので、ヘレンの店も閉鎖していた。
リニューアル後行くとヘレンお店はない。
ホテルのマネージャーに聞くと亡くなったという。ホテルの玄関横でニュートというパナマ帽子店のジムに聞くと
新聞に死亡が出ていたが年齢は出ていなかったと。
数年前にご主人が肺がんで亡くなり、ヘレンは少々寂しげの風情を見せていた。
ザブレーカーズにいてヘレンに会いに行くのもハワイの魅力の一つであっただけに、リニューアル後の
ロイヤルハワイアンホテルへ一つても何か空しさを感じるだけだ。
ニュートのジムも最近は年を取り白髪に髭も真っ白になったし顔のしわも以前より増えた感じだ。
ジムにヘレンの娘は如何したと聞くと、知らないと一言。
ヘレンの娘もハズバンドも知っているだけに寂しさを感じさせられる。
ヘレン シンクレヤ素敵な名前の婦人だった。愛称はピンクおばさんだった。
続 中尾善宣さん
中尾さんお話をもう少し続けたい。
中尾さんが神戸港をウイルソン号でハワイに向けて出発したのが1954年8月10日、船底の貨物の部屋の
二段ベットが船室だったそうだ。
部屋は悪いが食事は驚くほど豪華だったそうだ。そのころの日本は食べ物が碌にない時代で船は米国の船だけに
豊かだったのだ。
天理教の布教のためハワイへ、その後の苦労は大変だったらしい?
4男1女の子供さんの名前を付けるのが中尾さんらしいつけ方だ。いくつかの名前を教会の人が紙に書いてきて
その中から選んだそうだ。
その後、子供さんからお父さんは本当の自分の名前を呼んでくれないとクレームが、実は皆の名前に日本人では
発音しにくい、L,Rが入っていたからだ。
長男はOWEN<オーエン>二男ハMORRIS<モーリス>三男はERMER<エルマー>四男はCARL(カール>
長女ハGRACE<グレース>だ。
さすがの中尾さんは当時そこまでは考えないで名前を付けたのだろう。
1928年7月11日生まれの中尾さんは、小生が1998年に提案創設した、天理文庫に「陳舜臣文庫」と
「タカラヅカ レビューライブラリー」をしっかり守って頂いている。
二年前からは、岡田法夫さんと妻のレナさんが共に貸出ほかの業務を司っているので安心だ。
今年2012年6月には、宝塚大学の古い知人の崎田喜美枝理事長の偶然の紹介で阪急電鉄の
大橋太朗相談役が宝塚の公演DVDを140本ドネーションして下さり、それを持参してホノルルの
タカラヅカ レビューライブラリーまで運搬した。
お二人には感謝という言葉しかない。感激の一言だ。
現在タカラヅカ レビューライブラリーには宝塚の公演のDVD234本,ビデオテープ341本,歌劇、宝塚グラフ、
単行本合わせて446冊他がある。
プールサイドバー喰海
此処が僕のプールサイドバーとハワイに住んでいる親しい友人に教えて、日本からお土産に持参した
バーボンウイスキーのフォアローゼとイタリアワインでシャンテしたところ、この異空間に皆さんが
いたく感激、今更おいしいものをとかは問題でなく、お喋りができる気持ちのいいところが大切と
プールサイドの横にある和食の店も無視して優雅な大切な場所となった。
ホアローゼはハワイでは販売してなくこのウイスキーをこよなく愛する方は元共同通信記者の新名さん
この方は毎日曜日、自宅で持ち寄りのパーテイを開いて仲間を幸せにさせている。
ほろ酔い加減で新名さんが、プールサイドバーでは面白くない,食う会なのだからと一言、そこで
生まれたのが「喰海」くうかい、かいはハワイ語で海だから、ぴったしじゃないかと。
話は続いて2012年6月に丁度61歳を迎える元日本語ラジオ放送局のジェネラルマネージャーの
富田いく子さんがここで自分の誕生日パーテイ‐をしたいと希望。夢はかなえてあげましょうと。
心暖かな新名さんが即座に賛成、バースデイケーキもある素晴らしいバースデイパーテイが
タコの木の下で開かれたのだ。
ブレーカーズホテルの異空間、それは上記に写真があるが、夕方からは本当に人気も無くなり
静寂の中、そよ風が静かに吹いてくる、プールの水面をなだらかに風が過ぎ去っていく、
まさに夢の島ハワイの一コマと言えるだろう。
このホテル守っているのは数名のスタッフだがホテルのジェネラルマネージャーは女性のエセルさんだ。
ホテルのGMで女性は彼女一人のはずだ。
これからも頑張ってください。
友人の死、ココヘッドマリーンで散骨
1998年にハワイのホノルルに「陳舜臣文庫」と「タカラヅカ レビューライブラリー」を創設以来の友人が
肺がんで亡くなった。
本人は治る治すと言いう強い気持ちで、どんないシンドイかわからない抗癌治療も、成し遂げたと
常にイーメイルでその経過を送信してきたのだ。
勿論、この友人はブレーカーズには何回も来たことがある。shushikohがある時はよく来ていた。
大変に文学的感性のある方で、小生の数少ない読者でもあったのだ。
2012年5月5日のイーメイルが最後の送信になるとは、考えてもいなかった。
この友人は、海の見えるバーでドライマテイニを飲むのが望みだったがその望みもかなわぬ間に
天国へと旅立ったのだ。
海の見えるバー、それはリーフホテルのショワーバードだ。
日本で葬儀は行われたが、やはりハワイの海へ散骨する時に、あなたを七つの海へ送り出したいと
想い、その散骨の日まで待ち、2012年6月27日ココヘッドマリーンでの散骨、散灰をするのに参加するため
日本からやってきたのだ。
レイは流せないので、花弁だけにした花弁を遺灰とともにハワイの海へ静かにさよならをした。
英語で散骨という言葉はないと、ショワーバードで働いているジュリアに言われた。ではなというの?
ユリアはScattering ashes of the decerasedと教えてくれた。
76歳の誕生祝は、なんとプールサイドバー喰海で3人官女と共に
1936年10月9日が誕生日だ。
少し早いが、ハワイの3官女がプールサイトバーで誕生祝を催してくれるというので有難く
承った。
3官女は、日曜日に持ち寄りで集まりたわいなく飲みくしてさよならする集まりをする家の新名さんの
所に集まるミセスばかりだ。
偉そうに3官女というが各jなる76歳を迎える男も繰り上げれば80歳、80歳になると宮廷内でも
杖をついて歩ける身分になれるのだ。
中国ではこれを杖朝年という。70歳は国杖年というが、まあ、ここでは杖朝年としておこう。
プールサイドのタコの木の下で祝いの集会が、するとウクレレを持った白人がバースデーソングを
提供すると歌ってくれた。
3官女はうさぎちゃん、れいちゃん、るみちゃんだ。
そしてなんと予想もしないバースデイケーキと誕生日の贈りものが3官女からあり、
美しい赤のアロハシャツだった。
夕暮れから夜にかけて、そよ風が気持ちよくほほをなで、イタリアワインの美味しさ一段とハワイの
乾いた空気が美味にしてくれた。
今宵は最高、ホテルのスタッフのテイムも祝いに来てくれた。
来年は喜寿だ。
3官女また来年もお願いね。マハロ<2012年10月1日>
元宝塚歌劇月組の副組長の有明 淳さんの宝塚思い出話
有明 淳さんがハワイに住んでいることを知ったのは数年前の事。彼女の宝塚退団の時
サヨナラステージを撮影したのでした。
有明淳さんの講演 宝塚の想い出話
再会はブレーカーズホテルのプールサイドで、ハワイ式にハグして数十年ぶりの再会を互いに
喜びました。
折角なので、ホノルルの天理文庫の中にボランテイアで創設したタカラヅカ レビュライブラリーで
彼女に宝塚思い出話を、してもらったのです。
それまで、余り有明さんは<本名は清さん>宝塚に居たことをハワイでは公にしていなかったみたいで
いい機会にもなったようでした。
ハワイには、彼女の大先輩のセトアキコサン、ヤナギモトさんも住んでいるので、当日は沢山の方に交じって
参加して頂きたのです。
上記の写真がその時の記念写真です。
有明さんはハワイではフラダンスをバレーを、最近はタップもされているそうで、やはり宝塚歌劇百周年の
大同窓会<宝塚ホテル>にも参加してきたそうです。
タカラヅカ レビュライブラリーは、天理文庫の顧問の中尾さん、岡田さんと夫人のレナサンが、保管、
貸出業務をしてくれています。
もう一つ1998年に創設した陳舜臣文庫もこの方たちが、守ってくれているのです。
キャスリーン キングさんの事
キャスリーン キングさんと出会ったのは彼女がリーフホテルの中で装身具のお店を開いている時でした。
ショワーバードという目の前が海というバーに行ったとき、キャスリーンさんの店を知り、のぞいてみると
ハワイの海で取れたものを使ってキャスリーンさんが作ったブローチなど個性的な品を見て購入した事から
親しくなったのです。
ハワイの海で取れた素材を使い装身具を針金など使い見事に作り上げる才能はたいしたもので
ビッグアイランドのグリーンビーチで採取したグリーンサンズを彼女にあげようと思い昨年ハワイを
訪ねた時、彼女の店に行くと、すでに違う人の店になっていたのです。
そこで、どうしても彼女にあげたいので、自宅に郵送すると、大変喜んでEメールで返事が来たのです。
まるで砂に書いたラブレターではないが、砂に書けないラブレターみたいな感じとなり、この話は
同人誌「四季」に「砂に書けないラブレター」という題で書いたのです。
Eメールの返事が来たとき、電話番号も書いてあり、お店で話すように、お喋りがしたいとも
書いてあったのです。
でも、ひとつ気になる文面があったのです。それはサンセットイヤーズという言葉でした。
2014年6月ハワイを訪れた時、キャスリーンさんの家に電話を掛けたら留守電でした。
その後、何回掛けても留守電なので、手紙を書いてハワイへ来てることを知らせたのですが
キャスリン・キングさん
ハワイを離れるまで連絡はありませんでした。
グリーンサンズ<緑の砂>を送った時、彼女はお礼にと言って素敵なブローチを作り
郵送してきたのです。
デザインが複雑ながら一つの物語をそこから感じたのです。砂に書けないラブレターの
返事かもしれないと思ったのです。
芸術家キャスリーンさんの個性的作品は知人の何人かの人にプレゼントしたのです。
今は、彼女からの返事が来るのを待っているのです
SHIMMOY AKIRA SAN
その昔はメデイアの世界に居た方で、いろいろの国を巡り歩いて到達したのがハワイのようです。
私よりは一回り下位のの年齢ですが、このくらいになるとあまり上も下もありませんね。
この方とは、偶然知り合いこのブレーカーズホテルのプールサイドバーが大変気に入られて
来るたびに、此処でお仲間を集めて持ちより料理ワインで彼は私の持参のバーボンデラックスで
楽しんでいるのです。
前の年に来たときは、何のそぶりも感じなかった知人が帰国後、数カ月で日本へ帰国すると
いう事を知り、ああ又一人ゴルフや買い物に行くときの友人が居なくなったとがっかりしたのです。
何故かと言うと私は運転免許がないのです。
そんなことは別にして、新名さんと話している時、彼が例えば岡山にハワイから引き揚げたとしたら
此処にいるほど、人が訪ねてくるかなあという話になったのです。
確かに、先に急に引き上げた知人は今熱海に住んでいますが、ハワイに住んでいた時みたいに
尋ねるという事はなさそうです。
となるとハワイに住んでいる方が、沢山の知人が訪ねて来てくれるんではないかと、どちらが人生が
いいのだろうかということになったのです。
新名さんもハワイに居て四国巡礼したりお伊勢さん参りしたりしており、他の知人もハワイから毎年
日本を旅している人もいるのです。
そんなことを考えていると、新名さんにはハワイの神社になってもらい、実は日曜日には持ち寄りで
彼の家に来れる人は来ると言う習慣になっているのです。で神社の神主さんではないが、ブレーカーズホテルの
プールサイドにも彼がハワイにいる間は、集まることが出来る、となると矢張りハワイに住んでいる方が
沢山の人に会えるのではないかという話になりつつあるのです。
矢張りハワイは出会いの島で時には別れの島アロハオエなのです。
続く
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